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信仰随想 川のほとりにて 1 〝神の子の封印″を解く

教化部長 久都間 繁

 

三月上旬のこと、前教区で地方講師会での会議の折、ある講師から「教化部長が時々話される〝行間を読む〟とは、どういうことでしょうか?」という質問が寄せられた。それは、聖典や機関誌などを講義する際に‶行間を読み解いていきましょう″と私が語っていたことを受けてのことだが、想い出すままに次のようなエピソードをお話させていただいた。
生長の家本部が原宿にあったころ、私は長時間の電車通勤をしていたが、その時間を利用して何度目かの『生命の實相』全巻の通読をしていた。ある巻で、そこに書かれた文章が心の琴線に響き、同じ箇所を読み返す度に、新たな発見と、驚きと、ヒラメキが行間から次々とあふれてきて、とうとう一週間ほど同じ箇所を読み返していたことがある。
今から振り返れば〝ああ、あのときわたしは「行間」を読んでいたのだな〟と分かるのだが、その折のことを反芻してみると、行間を読むとは、魂の根底から求めていた「コトバ」と出逢うことなのかもしれない、と思えるのである。
かつてお世話になった恩師の一人は、「行間を読む」とは、「文字と文字の間に宇宙を読むことだ」と語っていたが、この言葉にも一理あって、聖典などの宗教書を読み解く場合には、文字面だけ読んで意味を解釈しているだけでは‶行間に説かれたコトバ″と出逢うことはできないのだ。その文脈の背後にある‶深み″にふれたとき、初めて既成概念や先入観で十重二十重に包まれていた封印が解かれ、行間から、文字間から、そして脳髄の背後から、そこに秘められていたコトバがあふれてくる。それは、神想観の折に意識の深層で経験する‶内的な体験″とも酷似しているのだ。つまり「行間を読む」とは、祈りの心をもって、文章の背後にあるコトバを探る、ことでもあるのだろう。
仏教でいう「業(karma)」について、『大辞林』には「身体・言語・心による人間の動き・行為」と書かれ、生長の家でも「身・口・意の三業」として、この扱いをとても大切にしている。たとえば、宗教でいう‶救い″とは、この「身・口・意の三業」に深いコトバを授けることで‶神の子の封印″が解かれ、その桎梏から解放されることかもしれないのだ。
たとえば「真理の書」や「聖典」と呼ばれる書物には、この「封印」を解くカギが秘められていて、その鍵を開くのは、先達が古来から取り組んできた熟読玩味や写経。そして、現代でいえば『日時計日記』という、手間と時間を惜しんでは決して得ることのできない、めんどくさいように見える手法こそが、「身・口・意の三業」に深い影響を与える最も有効な方法となるのかもしれない。
そんな、答えになったかどうか分からないようなお答えをしたのであるが、四月からは東京第一教区、第二教区の皆さんと一緒に、総裁先生のお言葉、そして聖典を深く味わいながら、〝神の子の封印〟を楽しく解いていきましょう。

行事のご参加、月刊誌のお申し込みはこちらまで TEL 03−5319−4051 10:00-17:00【木・祝日除く】
Email: tokyo1.kyoukabu@nifty.com

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